目線を合わせると当事者意識。
「目線を合わせる」「当事者意識」とはよく使われる言葉であり、ビジネスの世界ならなおさらだ。
ただ、目線を合わせるの意義や意味を解することはあってもそれはどういう行動を示すのかを知る者は少ないと感じる。
★相手は私じゃない。
例えば、秀でた者と劣る者。秀でた者が目線を合わせようとするとこういう事態が起こる。ある物事に対する意見を劣る者が言った時。
「それは何なのか説明して欲しい」
普通の寄り添いであり、一見して目線を合わせようとしている。だが、私から言わせれば全くできていない。解説を相手に委ねている時点で既に間違っている。
「説明して欲しい」とは「あなたが説明するべきであり、『それぐらいできるよね』」と言っている。相手が説明出来ていないから訊いているはずなのに。
むしろやるべきはこちらから「相手の思考」に近づけて一個一個逆に問いかけながら紐解いていってあげることだろうに。
相手は必要最低限自分のレベル感の一個下ないし、自分にとってこれができるだろうという妄想を押し付けているに過ぎない。
果たしてこれは如何なものか。
★汚れたくない自分と温室育ち。
さっきも言ったが、「相手の気持ちになる」「相手に対して当事者意識」を持つということを履き違えている人間が多すぎると考える。
《相手の視点に立つということは相手の境遇を理解・経験できれば良いわけである。》
これが最もシンプルで根本的な解決策であるはずなのだ。
しかし自分の範疇外のことに関しては非常に冷徹である。
ドブに落ちた人間を助けたいならば、自分もドブに落ちなければならない。
工場の煙で被害が出ているのならば、被害者に対して詫びるなどという価値のない作業ではなく、自分もその煙を浴びて解決策を見つけ出さなければならない。
腕の無い人間には哀れみを送り、苦労を知ったようなことを話す。自らも腕を切り落として物事話すべきなのに。
それが相手の目線で当事者なのだから。
自分は安全地帯で汚れることなく物事を話す。
汚れることを嫌う。
汚れるような生き方や育ち方をしていないから。
温かな部屋でぬくぬくと育ってきたから。
ドブに生きてる人間が客だろうが助けを求めてくる人だろうが、自分は温室で育ったから。
だから、出ない。
温かで安全な場所から。
相手のことは考えてる。
温かで安全な場所から。
相手がこっちに来るように促しながら。
それが今の世に蔓延る相手目線と当事者意識の、
「本質」
では、私はどうであろうか。
温室の者であり、温室の「当事者」でしかない。
だからこそ話せるのだ。
「温室育ち」を。