ゆめみる とらのもん さらりーまん
あんなこといいな
できたらいいな
あんなゆめ
こんなゆめ
いっぱいあるーけどー
みんなみんなみんな
かならずきえる
ふしぎな(上司の)ぽっけで
かならずきえーるー
そーらーをじゆうにとびたいなー
はい!
ちゅうおうせんー!!
ぁん あん! あ"ぁん"!!
とってもだいすき
とらのもんー
追記
中央線が最も人身事故の多い列車だそうです。
リーダーとフォロワー。フォロワーシップ。
リーダーシップについてはさまざまな研究がなされているが未だ定義もバラバラであったり、研究者によって言い分が違ったりする。
一方で、これらの研究が「日本において適切か否か」もまた議論されるべき内容ではないかと思う。
閑話休題。
今回リーダーとはなんなのかについて個人的に考えてみた。そしてリーダーシップの育成は果たして価値を持つのかについても言及する。
今回のテーマは「フォロワーシップ」
(背景)
リーダーシップを持つ人間を見たことがないなあと思ったのが始まりである。リーダーとはリーダーという役職を持つ者がフォロワーを率いるという「システム」が今の現状ではないかと思った。では、真の意味で正しいリーダーの選出とは何か。フォロワーに支持された者がリーダーになるべきであると言えるのではないか。従って、リーダーが各所においてリーダーになるのではなく、各所でフォロワーに選ばれた者がリーダーになることこそ自然かつ適切ではないかと思う。
(日常事例)
例えばリーダーという者を立てずに何かしらの企画を行ったとしよう。非公式な組織でメンバーも気楽な状態でも構わない。その時、ある人物の意見や行動を軸に全体を進めようとするなんてことを経験したことはないだろうか。つまり、ヒトないし動物的に自然と導きを与える者を選出しようとする集団心理が働くのではないかというものだ。
(仮説)
フォロワーシップを持つ者を集める。リーダーという役目を立てないというルールでいいだろう。
一定期間ディスカッションないし企画に対して共に行動してもらう。
その後フォロワー各位に支持する人物を1人選出してもらう。
その時、ある特定の人物の投票ないし矢印の数が自然と集まってくるのではないかというものだ。
この結果としてはフォロワーシップしかないはずなのになぜか投票と矢印の集中化が起こっているという想定だ。
私が知らないだけでもう既に先行研究があるかもしれないが、やってみるとおもしろそうではある。
好きなアレ。
経緯。
ちょっと再来週あたりに好きなもん的なアレをアレする機会があってメモがてら。
・アニメ編
ef ピンポン PSYCHO-PASS コードギアス BLACK LAGOON
・ゲーム編
スーパーマリオサンシャイン スマブラ スプラトゥーン ゼルダの伝説bow モンハン2G ドンキーコング64 ポケモンコロシアム ポケモンXD ポケモンエメラルド PUBG
・マンガ編
嘘食い ワンナウツ NARUTO 史上最強の弟子ケンイチ はねバド
・書籍編
2D⇨3D えぇ・・・
2次元の出来事は3次元でも反映されるって言い分PTAの頭おかしい人みたいですごく嫌いなんだけど。
最近2次元のお気に入りのキャラをふと振り返ってみると知らなかった自分の好みの共通項がなんとなく見えてしまって、えぇ・・・ってなってる。
買うのは原作の漫画やゲームそのものだけで、派生商品みたいなグッズとか、フィギュアとか一切買わないタイプだから、「キャラに対する思い入れ」はあくまでその漫画やアニメ、ゲームの中だけにしてる。
だからこそ、3Dへの持ち出し(派生グッズの購買)はないと思っていた。
が、たまたま知り合いの部屋でモデル雑誌見た時、眺めてるのが2Dの好みの共通項に雰囲気似てたから戦慄してこれ書いてる・・・
好みってお前それ・・・えぇ・・・
ツンデレとかヤンデレ、ゴスロリ、脱ぎ出す系変態女とか、リアルにいたら相当キツイし二度と関わりたくねーよ。
俺はまだ3Dにもいそうなタイプだったからまだよかったけど。
・・・よくねーよタコ。
目線を合わせると当事者意識。
「目線を合わせる」「当事者意識」とはよく使われる言葉であり、ビジネスの世界ならなおさらだ。
ただ、目線を合わせるの意義や意味を解することはあってもそれはどういう行動を示すのかを知る者は少ないと感じる。
★相手は私じゃない。
例えば、秀でた者と劣る者。秀でた者が目線を合わせようとするとこういう事態が起こる。ある物事に対する意見を劣る者が言った時。
「それは何なのか説明して欲しい」
普通の寄り添いであり、一見して目線を合わせようとしている。だが、私から言わせれば全くできていない。解説を相手に委ねている時点で既に間違っている。
「説明して欲しい」とは「あなたが説明するべきであり、『それぐらいできるよね』」と言っている。相手が説明出来ていないから訊いているはずなのに。
むしろやるべきはこちらから「相手の思考」に近づけて一個一個逆に問いかけながら紐解いていってあげることだろうに。
相手は必要最低限自分のレベル感の一個下ないし、自分にとってこれができるだろうという妄想を押し付けているに過ぎない。
果たしてこれは如何なものか。
★汚れたくない自分と温室育ち。
さっきも言ったが、「相手の気持ちになる」「相手に対して当事者意識」を持つということを履き違えている人間が多すぎると考える。
《相手の視点に立つということは相手の境遇を理解・経験できれば良いわけである。》
これが最もシンプルで根本的な解決策であるはずなのだ。
しかし自分の範疇外のことに関しては非常に冷徹である。
ドブに落ちた人間を助けたいならば、自分もドブに落ちなければならない。
工場の煙で被害が出ているのならば、被害者に対して詫びるなどという価値のない作業ではなく、自分もその煙を浴びて解決策を見つけ出さなければならない。
腕の無い人間には哀れみを送り、苦労を知ったようなことを話す。自らも腕を切り落として物事話すべきなのに。
それが相手の目線で当事者なのだから。
自分は安全地帯で汚れることなく物事を話す。
汚れることを嫌う。
汚れるような生き方や育ち方をしていないから。
温かな部屋でぬくぬくと育ってきたから。
ドブに生きてる人間が客だろうが助けを求めてくる人だろうが、自分は温室で育ったから。
だから、出ない。
温かで安全な場所から。
相手のことは考えてる。
温かで安全な場所から。
相手がこっちに来るように促しながら。
それが今の世に蔓延る相手目線と当事者意識の、
「本質」
では、私はどうであろうか。
温室の者であり、温室の「当事者」でしかない。
だからこそ話せるのだ。
「温室育ち」を。